立命館大学スポーツ健康科学部  教授 海老久美子さん  前篇

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宮崎:はじめまして。本日はありがとうございます。

  早速ですが、今されている研究や仕事内容を教えていただけますか。

海老:

  立命館大学スポーツ健康科学部の教員として、学生にスポーツ栄養学、栄養教育論などを教えています。 具体的には栄養学。食事をスポーツ健康の視点でとしてどのように捉えるか、あるいは栄養学、食事を専門としている管理栄養士などの他職種といかに連携するかを実際に試みたりもしています。

  大学院ではさらに専門的に院生自身がスポーツ栄養学の今の知見から、特定のアスリートへの一食分のメニューとしてかたちにします。

 

宮崎: どうやってかたちにするのですか?

海老:

  「この選手の、この時期の、この日の、この食事」と決めに決めに決め込んでいって(笑)、季節や選手のコンディションなども踏まえた上で、ベストな一食の献立を作るわけです。それを30食ほど用意するために、グループで調理する実習も行ないます。

  大学は管理栄養士の養成講座ではないので、一般的には調理をしません。でも、食事を作るためのエネルギーや段取り、あるいは3~4食しか作らない家庭での調理と30食の調理の違いを実際に体を使って体感してほしいので実習を重視しています。 そのために、こんな調理実習室も作ってしまいました。(笑)

 宮崎: スポーツ栄養の分野を目指されたきっかけを教えていただけますか?

海老:

  大学を卒業後、管理栄養士として大手家電メーカーに就職して、オーブンレンジのレシピ開発やユーザーを対象とした料理教室の講師をしていました。それはそれで面白くて、OL教育をしっかり受けられたことや、話しをしながら調理ができる技術(笑)を身につけられたことなど、今振り返っても役にたったと思っています。ただ3年ほど経つと同じことの繰り返しに思えてきて、新企画の提案もしたのですが、なかなか採用されるわけもなく、「ああ、もしかしてこのままずっとこの仕事をしていくのかな?」と悩んでいましたね。

宮崎: どうされたんですか?

海老:

  当時はバブル前で、すごいフィットネスブームだったのです。そこに目をつけフィットネスクラブで栄養指導が取り入れられないかと考え、自分で企画書を作って小さなフィットネスクラブに持ち込んだんです。そしたらそこの代表に興味を持ってもらえたのですが、「そこまで言うなら、あなたもフィットネスを勉強するべきではないのか?」と言われ、「わかりました。そのかわり歩合でダイエット指導をさせていただいて、そのサービスを希望する方は私のお客にしていいですか?」とバーターみたいな感じで企画が通ったんですね。そこから、家電メーカーに在職しながら、自分の時間とお金を使ってフィットネスインストラクター養成講座で勉強をしつつ、ダイエット指導をするといった何足もワラジを履いた生活だったですね。若気の至りです(笑)

宮崎: アグレッシブですね(笑)   どれくらいその生活つづけたのですか?

海老: 1年くらいです。

宮崎: そのあと転職されたんですよね。

海老: そうです。

  そのうちに、そんなことをやっている女性がいるというのが少し話題になって、色々なところから「そういう人材を求めている」というような情報が私のところにたくさん来るようになって、フィットネスクラブへの転職も考えたんですが、本格的にフィットネスに携わるならちゃんと勉強したいという思いもあって、フィットネスクラブの運営も企画する会社に勉強のつもりで転職しました。その頃いろいろな企業が新規事業開発部を立ち上げて、多くの大企業が企業内フィットネスを取り入れようとしていた時期でもあり、管理栄養士としてではなく、企業内フィットネスのプランナーとして、大企業にも積極的に営業活動を行い、企業内フィットネスのプランニングを手掛けるようになっていったんです。これがスポーツ栄養を目指すきっかけですね。

宮崎: 何歳くらいの話ですか?

海老: 26歳くらいだったと思います。

 かなりの金額の見積もりを持っていっても平気で通ってしまう時代でした。(笑)

 

宮崎: 高校野球との出会いにまつわるエピソードを教えてください

 

海老:

  社会人の野球のチームから選手の栄養指導をやってみないかという話がくるようになり、それに関わっている間に全日本や高校野球も...となったんです。でも、高校野球の現場がどうなっているのかは全国を回り始めて初めてわかりました。当時は食育なんて言葉もないし、それこそ選手にも会わせてもらえない。食事のことならお母さんと話して!って時代でしたね。でも、そうは言われても話をしているだけじゃわからないので、『どれくらいの量が必要で・どういう風に調理して・作った料理をお弁当箱に詰めたら、入んないじゃん!』のような感覚は、選手自身が食事に関わらないできないと思って、自分たちが必要と思う量を献立にして調理実習までする企画書を出したんです(企画は得意ですから、笑)。でも、これはものすごーい反発を受けましたね。(汗笑)

  「うちの子はバットとグローブを持たせるために野球部に入れたのであって、包丁を持たせるためではない」なんてと言われたりしてね。...で、いやーこりゃだめかなって思ったんですが、いくつかの高校、特に公立の進学校から「練習量では勝てなくても、野球の意味を知る上でも栄養について教えてもらいたい。それに、彼らは指導者になって戻って来る子たちだから、原点となるところを教えていきたい」と教育的な立場から栄養指導を求める高校も少しずつ出てきたんですね。

宮崎: 「捨てる神あれば拾う神あり」ですね。

  でも、そんなこと全国規模でやってたんでしょ?その予算って大学の研究費か何かですか?

海老:

  いえいえ(汗)、先ほど話した転職した会社に在職してて、そこでの仕事です。

当時の社長からは自分の給料の3倍の売り上げを上げて一人前!と言われていたので、交通費・人件費などすべて高校で負担してもらう契約で進めていました。3倍の売り上げは達成はできませんでしたが。

宮崎:

  えーそれはすごい!じゃぁ結果を出さないと、会社からも高校からも怒られますね。

  でも、その当時の海老先生を支えたモチベーションは何だったんですか? 言い換えれば、言わば多くのお客に反発されなかなか認めてもらえないわけでしょ。しかも誰もやったことがなくお手本も無いようなことで、なかなか結果が出ないと「はたしてこれでいいのか?」なんて悩みというか不安で普通メゲますよね。(笑)

海老:

  お手本が無いことをやってきたからこそ、今の私があるのかもしれません。

  ただ、当時の社長に言われて強く印象に残ったのが「考えられる奴は考えて稼げ。それができない奴は身体を使え。自分の強み、価値は何なのかを考えて動けば、必ず仕事になる」という言葉です。常に考え続けることを叩き込まれましたね。

  その社長というのは、アメフト雑誌の編集長歴任する等、書く文章がまた面白いんですよ。私も社長の書く文章を読むのが大好きで...ね、ある時社長にいわれて私も書いてみたんですが「この文章はためにはなるけど、全然面白くない」と却下されました(笑)。食べることはおいしいと思ったり、わくわくしたり、楽しみであるはず。それを表現することでその人の個性が出るはずなのに、なんで消すんだと。でも、あまり個性的な文章を書いて社長に迷惑がかかるといけないと思って、きっと個性を出すのが怖かったんですね。それに対して社長は「嫌われることも評価、誰にも相手にされないよりも叩かれるほうがいい」といっていました。

  そんな人だったんですね。そんな人と仕事ができたことがモチベーションに繋がったのかもしれません。

宮崎: やっぱり人との出会いですか。素敵な出会いですね。

海老:

  あと、世の中が色々なことに挑戦してなんでもできちゃう時代でしたから、私も負けてらんないなぁって。自分の活躍できるフィールドをどんどん広げなくっちゃって思いが強かったですね。

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宮崎: 「野球食」を書かれたきっかけはなんですか。

海老:

  当時の高校野球のマーケットは球児や関係者、その家族などを含めると4000万人位いると言われていて、ビジネスとして無視できない人数だし、なにかひとつにまとめる価値があると思ったんです。それが「野球食」の本づくりに繋がり、企画書を作ってベースボールマガジン社に持ち込みました。

宮崎: また企画書ですね(笑)飛び込みですか?

 海老: いやいや、これはちゃんと人脈を使って持ち込みました。

  それでも、紆余曲折あって当初は出版社から野球に限定しない内容を求められたりもしましたが、詳細を詰めるうちに野球に特化してこそ面白いと意見が一致したんです。

宮崎: 印税というか著作権はどうなったんですか?

海老:

  「業務時間外に書いたとはいえ、会社に所属している社員が書くのだから会社のものだ」という意見があったらしいのですが、社長が「これは個人のもの」と押し切ってくれたそうです。あとから聞いた話ですが...

  社長からは「自分で自分の商品価値を高めることが会社の価値を高めることにも繋がる」といわれ、個人契約ができたお陰で会社を背負わずに自由に本が作れました。

宮崎: やっぱりすごい人と出会ってますね。(最近話題のT社のレシピ本の権利はどうなってるのかなぁ???)

  で、そんな充実した仕事をされていた海老先生が、甲子園大学大学院に入学されたのはどうしてですか。

 

海老:

恩師の先生が「本を出して、その評価はどうするの?高校球児が本の通りに実践したとして、本当に効果があるのか、責任はどうやって取るの?効果を証明する科学的解析が必要では」といわれたのがきっかけです。

会社員としては自分の仕事がニーズやウォンツに合っているか、ちゃんとペイできているかということで勝負していました。それが30代後半になって、今までしてきたことの責任をどうとるのとつきつけられて、新しい切り口を与えてもらったわけです。

宮崎: 仕事を続けながら大学院に行かれたのですか?

海老: そうです。

  大学院では高校球児300人を栄養指導した群としていない群の2つのグループに分けて検証したのですが、会社の上司や仲間も協力してくれました。

 今思うと、当時の私はやりたい放題でしたね。(笑)

宮崎:

  いやいや、理想でしょ!管理栄養士の仕事は結果を出すことと、エビデンスにこだわりをもたないとダメだ。それを会社として応援したい。ただ、能動でないと。会社から院へ行けと言われていくようじゃやっぱりダメで、自らの意志で「普段やっている仕事を深めたいから院に行きたい!」なんてね。そういう意味では当時の会社と海老先生の関係は理想的ですね。

海老:

  当時の会社にはマネージャーもいたし、補佐してくれる管理栄養士もいました。でも、基本的にはやりたいことがはっきりしていることが大切。自分がなにをやりたいのかわからず、上からはとにかくやれといわれたら、とても辛いと思います。

  大抵の管理栄養士はいわれたことに納得できたらやる能力はあるし、興味・関心もある。でも、多くは殻を破れていないですね。

宮崎:

同感です。「チャンスがあってもやらない」、「能力があってもできない」そういう人が多いような気がします。

結局、いつ仕事を辞められたのですか?

海老:

 大学院最後の年に国立スポーツ科学センターの研究員になることになり、会社を辞めました。辞めるにあたって、社長は「外の人間として刺激を与えてくれれば良い」と快く送り出してもらえました。社長には本当に感謝しています。(つづく)